ひーらぐ日記

自然をこよなく愛する写真家?趣味や興味や楽しかったことだけ書く。

考察しながら読む少女終末旅行「45睡眠/46沈黙/47終末」

最終話である。扉絵は手を繋いで螺旋階段を登る二人である。車を失った二人は本当に死にかけている。アイスバーンの坂を登っているので、まだ外壁のようだ。銃を投げ捨てるユーリ。置いてくのが可愛そうだかららしい。ユーリにとっての相棒だったのだろう。弾を残すのは爆薬の起爆用である。二人の歩いているところをみると、そもそも車で行けない場所もある。近道をしているのだろう。

大事にしていた本を燃やすことでより切迫感がある。この行為には、記録を失うという意味が込められている。人間性というか文明の喪失である。文明を失うと生命としての人間性が表層化してくる。最初に燃やすのはユーリが燃やしてゴミとかクズとか言われた河童である。先に進むとどんどん大型の機械が出てくる。

日記を燃やし始めて、チトのモノローグが始まる。記憶とは曖昧なものだ。主観的に大切な記録を取捨選択して都合のいいように捻じ曲げたものが記憶である。それが人格を形成している。記録がなくなると、記憶が曖昧になり、人格も不安定になる。記録が消えると記憶も薄れて、やがて人は単純な動物になっていく。

記録を失うことで、自分が自分でなくなっていくことに恐怖していたチトである。

ようやく内部への入り口が見えた。この中には螺旋階段があり、最上階まで登ることができる。ここで再び螺旋である。つまり読者の復習というわけだ。生きるとは、ひたすら同じことをグルグルと繰り返しながら進んでいくことだ。その最後になる。日記も最後ということは、全てを出し切ったということだ。

ランタンが消えたところで、ユーリが暗闇を苦手にしていることを告白する。今まではチトに知られたくなかったことなのかもしれない。それもどうでもいいくらい、二人は最後の力を絞っている。再びチトのモノローグが始まり、生きるとは何か語り始める。その哲学は禅というか、全は個にして個は全なり個は孤にあらず、一は全、全は一という古代東洋の宗教観を表している。つまり多くを失ったことで、個を失うことは全につながることに気づき、ユーリを通じて自分と世界が一体となったと感じているのである。

最上階に着くと、黒い石があるだけであった。チトは自分のとってきた道を後悔?というより他に何かできた可能性があったのではないか考えずにいられないようだ。ユーリは単純にそれを否定してくれる。

こうして、生きるとは何かということに対する答えを見つけて、物語は終わりになる。

二人のその後であるが、物語は出発点に戻ったとも言える。食料が尽きて星空の下で二人で眠るというのは、第1話のエンドと変わらない。螺旋をグルグル回って、最初に戻ったのだ。これから下に降りるのか、別の都市を目指すのか、月へ行くのか。自分の手の届く範囲が世界の全てというのは物語に当てはめることができる。つまり語られた内容から未来を予測するの無理だということだ。

ところが、チトとユーリというキャラクターに対する愛が溢れているためか、最終回後も二人が生きられる可能性というかヒントがあちこちにちりばめられている。都市の廃墟の中には、サイコロみたいな建築物に絵があり、螺旋階段の上に黒い石があり、そこから点線が月に伸びている。またそのようすを管理AIが監視しているように見える。また近くには第1〜5基幹塔があり、管理AIが生きている可能性が高いことを忘れてはいけない。同じく箱の絵には、二つの天体から軌道エレベータと人工大陸のようなものが伸び、それが定期的に重なって往来できるシステムが描かれてている。それと同じ絵が黒い石を覆う氷の下から出てきており、スイッチのように光っている部分がある。

水の中にエリンギが二匹いて、潜水艦と同じぐらいの大きさになっている。エリンギは再び人類が地球に降りたったときにエネルギー源の役割を果たすのであろう。またはエリンギは宇宙船になるのかもしれない。ぬこがあっさり二人と別れたのも、将来再開すると知っていたのかも。大きくなったぬこが二人を迎えに行くのはありえる。海辺に都市と骨が見えるが、上空にある点線は人工衛星のものだろう。二人を回収して去っていったとも考えられる。黒い石の光っている部分は電車の位置表示と同じものに見える。

などなど様々な解釈の余地を残しているのは、二人の物語は終わるが、ここから世界の物語が始まるというメッセージかもしれない。