ひーらぐ日記

自然をこよなく愛する写真家?趣味や興味や楽しかったことだけ書く。

少女終末旅行の分析1 最後の希望

1巻から6巻まで、読みながら考察したことで読み飛ばしたり、気がつかなかった点をまとめることができた。続いて分析をしてみたいと思う。

物語の全体構成は、ループ式となっている。つまり始まりがあって終わりがあるタイプや、長い時間の一部を切り取ったタイプ、風呂敷を広げて畳むタイプではない。物語の中でも螺旋構造をモチーフにしていたように、ぐるぐる回りながら進んでるのか戻っているのか分からない状態が延々と続くタイプである。

第1話の終わり方と、最終回の終わり方が一緒であること、中間地点のエピソードが螺旋であること、暗い中や雪の日など、同じような始まり方のエピソードがあり、登場人物がそれに言及する場面もある。

最終回であるが、かなり早い段階で終わり方を決めていたのではないだろうか。途中で悩んだかもしれないが。

各巻ごとの構成は、起承転結がはっきりしている。巻の終盤の3エピソードを使って、ゲストを登場させ、それぞれの生き方を二人に考えさせるという構成だ。1巻から、カナザワ、イシイ、自律機械、ヌコとエリンギ、人工知能である。6巻はチトのモノローグがそれに代わるものになっている。

各話の構成は、あらかじめ決められた状況にキャラクターを配置して自由に行動させる方法を取っている。つまり場所やアイテムを配置し、そこをキャラに動いてもらって反応を見るという流動的な方法だ。話がお約束でどこかで見たような流れになるのを防ぐ効果がある一方で、だらだらしたよく分からない展開になる危険性がある。

キャラが独り歩きしたり明後日の方向に話が進まないよう、優等生的で理屈っぽいまじめキャラのチトがストーリーを進める役割を担う。反対に、能天気でバカで説明が必要な突っ込まれ役のユーリは、物語の全体を明るく楽観的な雰囲気にすることと、本能的なカンで正解を導きチトの疑問に対する答えを用意する役割を担っている。

物語のテーマは、生きるとは何か、である。副次的に、戦争とは何か、戦争とは何か、記憶と記録は何が違うか、食物連鎖とは、、人はなぜ生きるのか、生き甲斐とはなにか、生命とは何か、宗教とは何か、死後の世界はあるのか、家とは、音楽とは、人はなぜ努力するのか、道に迷うとは、料理とは、思い出とは、時間とは、未知への不安と興味とは、兵器とは、未来と過去とは、食の楽しみとは、死とは、芸術とは、忘却とは、郷愁とは、好奇心と探求とは、文明とは、などのサブテーマが提示される。

友情とか愛とか、欲望や憎しみなど心の光と闇のテーマが希薄である。二人の関係も、恋人とも友人とも言えない中途半端な状態だ。これはメインテーマを浮き彫りにするためにあえてそうしているのであろう。

物語の世界観とコンセプトは、ディストピア系である。崩壊した文明と滅びゆく人類。人間以外の生物は絶滅し、人々の生活を支えていた都市やインフラ、食料やエネルギーなどの生産施設は故障し、残った人々は遠くない未来に全員死ぬ運命にある。

最終回がバッドエンドなのか、別の可能性が示されているものの、生きるとは何かというテーマを語る上で、最終的な死が予定されているように思える。どのみち寿命があるのだ。つまり、どうせ死ぬし、生きている間に何をどう努力してもなんにもならない状態にすることで、それでも生きる意味は何かを問いかけているのだ。

簡単な例を示すと、お腹が空いていれば粗末なものでも美味しく感じるし、満腹であれば豪華な料理でも幸せを感じない。食べるものも住む場所も着る物も不自由しない生活をしていれば、何を手に入れてもあまり喜びを感じられないが、何一つ持っていないときは、少しの獲得でも大いに喜べる。客観的な幸福と、主観的な幸福感は違うのだ。色即是空の思想である。

物語の最後、二人は持っていたものを次々と失っていく。失うことによって、二人の価値は究極まで高まる。死とは、個体の終わりであるが、個体を世界の一部と考えるなら、過去と未来と、個と全の大きな流れは続いていく。生きている間に何をしようがしなかろうが、人生には過去の影響があり未来へ影響するし、世界全体から影響を受けて、世界全体へ影響を及ぼす。世界とのつながりを感じられれば孤独や不安から解放される。

飽食や物と情報の洪水で溢れている現代日本社会へのアンチテーゼも少し感じられる。少しのことでは喜べないため、幸福感のない社会になっている。麻薬やギャンブルなど過激な快楽を求めるのもそうだ。しかしそれはメインテーマではないようだ。

このように、生きるとは何か、というテーマを語りやすい世界観を用意して二人の冒険が始まるのだが、登場するゲストについても共通点がある。無駄なことをやり成功しない点だ。

カナザワの地図づくりは、そもそも新しい場所へ進む二人には役立たない。意味のない生き甲斐である。イシイの飛行機も失敗する。一匹の魚を育てる自律機械の行動も無駄だ。エリンギは地球を停止させ終了させている。人工知能はどこにでも行けて、不老不死の無忘却という完璧さにもかかわらず、自殺する。

コンセプトからすると、二人が目指した最上階には何もないのが当然なのである。

全く無駄なことをしてきた結果、得られた結論が、生きるのは最高だった、ということだ。

人はなぜ生きるのか…生きるのは最高だから

生き甲斐とは何か…生きてて楽しくなるもの

食べることは嬉しい

寝るのは楽しい

暖かいのは嬉しい

誰かがいると寂しくない

暗いのは怖い、明るいのは嬉しい

戦争はバカバカしい

記録は大事

嫌なことは忘れよう

生きることに意味はないけどいいこともある

世界と自分と現在と過去と未来はつながっている

二人の何もない旅を通じて、こうした当たり前のことを思い出させるのが物語のコンセプトなのだと思う。

もちろん、これで全部ではない。

自律機械のところで、生命とは何かという問いに対し、終わりがあるのが生命だと答えている。一方で、螺旋では毎日ぐるぐる回ってどこへたどり着くのかが生きることだと言っている。アニメのエンディングでは、終わるまで終わらないという言葉が出てくる。

世界は終わり文明は滅んで地球は眠りにつくのに、物語は終わらないのだ。漫画としては完結したが、無限に考察できる可能性を残した。

ハードSFと呼ぶべきなのか、世界観の説明を故意に省き、読者の想像力に任せるというスタイルと相まって、終わらない作品になった。エンディング後も、どのようなストーリーにでもできる無限の自由を創造した。

極端な例であるが、最終回後の二人について、いくつかの可能性をあげよう。

頂上の黒い石が軌道エレベーターの軌道キーとなり、月へ向かう可能性がある。実際それを想起させるようなアイテムが提示されている。月から火星、木星土星と同じような物語が続き、ときどき人や機械に会い、当初の目的を忘れて先へと進む話も良いかもしれない。

オールマイティーな存在のヌコは何にでもなれる。宇宙人でもいいし、進化した人類でも、機械生命体でもいい。彼らは何でもできるので、何でもありの方法で二人を救えるだろう。原潜での説明を聞く限りでは、進化した機械のように思えるが、人間との融合体かもしれない。進化した人間と機械の融合体が、地球にかつての環境を復元しようと復元した人間の子孫がチトとユーリだったら、ちょっと怖い。

月に行こう、が伏線の可能性があるなら、ちーちゃんが神なのでは、も伏線の可能性がある。死後にヌコと融合したチトは、地上世界に人類社会を復元ためエリンギを従えて降臨する。ユーリは、さかなかな?

エリンギが人間社会を復元したい気持ちは分かる。つまり人間が自分を生み出した自然環境を保全したいのと同じだ。

二人が死後にエリンギに食べられて人格のデータだけになり転送される可能性だってある。サイバーな空間で立体映像として地上世界に戻り、幽霊となる。ちなみにタバコを吸うと見えるらしい。

複製芸術博物館の中央にモノリスがある。モノリスと言えば2001年宇宙の旅で、人間を精神体にして宇宙の別の場所に転送するものだ。外太陽系探査船が黒い石を発見し、地球脱出の経路を得たことで、方舟計画が中止になったのかもしれない。

チトは手の届く範囲が世界だと言った。無限の想像力があれば世界は無限に広がるとも言える。

 

20世紀の世紀末に、終末観漂う作品が多く生み出されたのに対し、なぜ今になって少女終末旅行が生まれたのか。本当の終わりが見えたからかもしれない。

つまり、機械が進化して生命を持ち地球から他の星に広がっていくという未来である。その場合、現代は機械生命体が生まれる前の原始的な状態と言えるだろう。

そのとき人は機械に死をプログラムするのであろうか。記憶を記録に変えて、人格をリセットする機能は付けるかもしれない。また機械が自律進化してそうなるかもしれない。

いずれにせよ、地球という生命の役割がそれで終わるかもしれない。

もう一つの考え方として、生きるとは終わるのではなく、変わることだというものがある。その場合未来はもっと明るいイメージで語られるだろう。